しかも、その人は「新撰組」の局長である近藤勇を襲撃して重症を負わせていた。

その人の名は【篠原泰之進(しのはらたいのしん)】(1828年~1911年)。

筑後国生葉郡(現在の福岡県うきは市)出身ですが、余りうきは市は馴染みがないでしょうね。ちなみに同地域の出身者には、鳥越俊太郎(ジャーナリスト・都知事選立候補者)や村田英雄(歌手.故人)がおり、旧吉井町と浮羽町が合併してうきは市となってます。

時は幕末の文政年間というから、江戸時代末期で明治維新の40年前に生まれており、ちょうど同じくらいに勝海舟も生まれています。生家は農家で石工であるといいますから、百姓なんでしょうけど幼少より武芸を好み剣術・槍術・柔術なとを嗜んだというから、相当豪農あるいは庄屋クラス出身であるようです。江戸時代は百姓であるけれども戦時には足軽や中間(ちゅうげん)として戦に出るわけですが、この時代に九州の片田舎から当時の都である京都で「新撰組隊士」になったという経緯はちょっと興味湧きませんか?

桜田門外の変後のあとの万延元年に脱藩して水戸へ行ったというからバリバリの「尊王攘夷の志士」として活躍してますね。また文久年間には奥州から越後・関東・京都・大阪・中国・九州と全国を遊歴したとあり、相当の資金力をバックに持っていたことは生家が相当裕福だったということになりますね。武芸百般に精通していたことで、当時江戸で道場を開いていた伊東甲子太郎(新撰組参謀)と交遊を深めて、ともに新撰組に加入せんと上京しています。

諸新撰組では諸士調役兼監察・柔術師範を務めており、近藤勇や伊藤甲子太郎に重用されたことから武芸の達人的なこともありますが、多分に人物的にも優れていたようです。

役回りの諸士調役とは「しょししらべやく」で不逞浪士の探索をすることと、監察は主に隊の内部を監視・査察をするということです。所謂、警察権と検察権の権力を持っており最大200名超す隊士がいたことから、隊士の規律には厳しい新撰組ならではの役柄ですね。どうしたことかその新撰組を御陵衛士(孝明天皇の御陵守護の任にあたる役目)結成に伴って離脱しています。これも伊東甲子太郎とともに脱退するとは、新選組の場合は脱隊を原則違反としておるわけなので、諸士調役兼監察が自ら規律違反と言いますか命に係わることをしでかしてまで何をしようと思ったのでしょうか。伊藤甲子太郎はその思想の違いから離脱していますので、入隊が同じということで誘われたのか思想に共鳴したのでしょうか。

新撰組局長 近藤勇(Wikipedia)

その伊東甲子太郎は案の定というか近藤局長に呼ばれ油小路で暗殺されますが、その後この御陵衛士の壊滅を画策した油小路事件が起きますが、相当数(一説には4,50人)の新選組隊士に囲まれた衛士7人の中に篠原もいたのですが、やはり剣の達人だったのでしょう切り抜けて生き残っています。この油小路事件では、ある女性が重要な役を演じていたと作家葉室麟氏著作の影踏み鬼新撰組篠原泰之進日録に描かれています。

 

これがまた面白い!